3. 張仲景(约公元150~154年—约公元215~219年)、字を仲景、名は機という。後漢の頃の南陽郡涅陽(現在の河南省鎮平県東北部)の人。その医学上の功績から医聖と称えられる。
張仲景は幼い頃から群書に博通し、10代の時に既に地方に名前が広まっていた。霊帝の時に孝廉に推挙され、50歳の頃には長沙の太守(県知事のような政治家)となった。しかし彼が有名なのは政治家としてではなく、「傷寒雑病論」という医学書の著者としてである。張仲景は若き日に、扁鵲が眈の太子を治療したことや斉侯に対する望診などを書で学び、その素晴らしさに溜め息を洩らさずにはいられなかった。青年時代に同郷の張伯祖から医術を学び、後漢末期の混乱と更に追い討ちをかける疫病に心を痛め、官を退いて医学の研鑽に務めることになった。張仲景は古代から伝わる医書の知識と自らの経験を併せ、著名な医薬書「傷寒雑病論」を編纂した。後世は「傷寒論」と「金匱要略方論」の2部に分かれている。「傷寒雑病論」は弁証論治の思想体系を確立し、漢方医の土台となる著作として医療の発展に大きな役割を果たした。
4. 李時珍
李時珍(1518年~1593年)は中国湖北省蘄州市の出身である。医者の家に生まれた李時珍は小さい頃から大自然に大きな興味を示し、いつも父親と一緒に山で草薬を採集し家で加工していた。1531年、14歳の李時珍は父親の事業を継ぎ医学の研究に専念し、貧しい民衆の病気を治すことに力を尽くしていた。良い医者になるために李時珍は、漁師や猟師、農民、薬材屋をよく訪ね、多くの民間の処方を収集した上で詳しく観察し、繰り返し実験を行い、各種薬物の形態と性質に深い理解を得た。1551年には李時珍は既に有名な医者になっていた。1553年、35歳になった李時珍は『本草綱目』の編纂に全力を注いだ。
この新薬典編纂のため、李時珍は800種類余の医学著作とその他の書籍を閲覧し、自身が普段から収拾した資料に依拠し、編纂中の薬典に対して3回も大きな修正を行った。30年ほどの努力を経て1578年、李時珍はようやく後世まで残る大著『本草綱目』を完成させた。
『本草綱目』全書は合わせて190万字余りあり、16部、60類、50巻に分けられ、1892種の薬物と11000余の処方が載せられていると共に、閲覧者に便宜を図るため、各種薬物の複雑な形態を描いた1100枚を超えるイラストも添えられている。『本草綱目』の成果は大変多い。まず、登録した薬物に対して新たな分類を行った。例えば、草類や動物類の薬物に対して科学的な分類を行った。また、『本草綱目』は前人の冒した間違いや表現が適切でない箇所を修正したり、明確にして新発見の薬物や薬物の効能などを追加した。日本でも何度も翻訳・発行され広く伝わっている。また、イギリスやフランス、ドイツなどの国でも訳本がありラテン語の訳本もある。17世紀から、『本草綱目』は世界各地に伝わり、近代の薬物研究者たちが参考にする重要な文献となった。